わたし、基本的に記憶力はあまり良くありません。
何事も覚えるのは早いのですが、忘れるのも早いんです。
そんな私が鮮明に覚えているアメリカへ向かう朝
私の初海外だったからか、
初めて親からしばらく離れる日だったからか、
興奮しすぎたからなのか、
今でも鮮明に覚えています。
福岡の空港から、アメリカに着いたあとまで。
当時、わたしは市内にあった英語を教えている学校に通っていました。私が通っていたのは留学科。他にもフライトアテンダント科や音楽科がありました。留学科の生徒は約8ヶ月の英語のクラスを終了し、アメリカの複数の学校やオーストラリアに留学が決まっていました。
お正月あけすぐの私の出発を皮切りに、数回に分かれて留学科の生徒は海外へと旅立つ四予定で、学校の先生たちも忙しかったでしょうね。その学校は英語の授業のみではなく海外留学斡旋も込みの学校。留学サポートも含まれていました。
特に私が留学する先の大学は今まで誰も行ったことがなく、私が初めてだったため部長も学校見学をすることになってました。
大きなスーツケースを抱えていざ!
3匹の犬たちに、しばらく帰ってこないからね〜と挨拶し、まず乗り込むのは車(笑)。
福岡市の田舎に住んでいた私は父親の運転する車に乗り込み、家族総出で空港へと向かいました。朝早かったので、テンションはかなり低かったはずです。
車に乗っている最中の気持ちなどは全く覚えてないんです(笑)。
空港についた所らへんから記憶が鮮明に。。。
車から荷物をおろし、チェックインカウンターへ。大きなスーツケースと黒のバックパックを持って母親と一緒に行きました。そこには学校の副長と部長が。部長が一緒に留学先まで行くことになってたんです。そのことをすっかり忘れてた私は「うげ。そうやった。」と心のなかでツブヤイタのはもちろんです。
あまり知らない人というか絡んだこともなく、良い印象もなかったので、朝から言い訳しつつ、席が別々になるようにチェックイン。
思いもかけない母親の一言
空港ではほぼみんなと言っていいほどの友人たちが待ち構えてくれていました。数日後にシカゴへ旅立つ留学科の友人たちともアメリカでの再会をそこで約束したのを覚えてます。
みんなで写真とったり、餞別をもらったり。あっという間に搭乗時間になりました。
搭乗するゲートへ向かうとき、最後に母親からかけられた言葉は
「何があっても直ぐには助けに行けんっちゃけんね、自分で責任持たなよ。帰ってくるときにハーフの赤ちゃんがおったらしょうがないけど、ダンナはいらんけんね。」
わたしの対応はもちろん、
「なん言いようと?!」
急に何を言い出したんだ??と思いましたね。
最後は普通に
「ホント気をつけりーよ。」
と送り出してくれましたが。
搭乗ギリギリでゲートへ向かった私は、空港の人たちにせき立てられながら飛行機に乗り込んだのでした。
アメリカに行くことをやっと実感
19歳まで親元を離れることなくヌクヌクと育った私にとって、この家族から離れて暮らすということ事態があまり大変と思ってませんでした。「やっと親と離れて生活できるんだ!大人じゃん!」と。アメリカ映画が好きすぎてアメリカに行くと決めた私、当時の私にとってはワクワク感の方がダンゼン勝ってました。
飛行機に乗り込んで皆からもらった物や手紙を読んで、「あー、本当にアメリカに行ってるんだー」「しばらく皆に会えないんだー」って実感したのを覚えてます。
福岡からはアメリカへの直行便はなかったので、まずは関空への旅。
関空での飛行機の待ち時間、さらに実感がわいてました。
ベンチに座っておかんの手作りのおにぎりを食べながら。「これもしばらく食べれないんだよな。」って。毎日、何も考えずに食べてたお袋の味。ドンドン実感がこみ上げてきました。
それでもやはり、新しい場所へ行くという興奮からでしょうか、シンミリとなることもなく、ドキドキしながらアメリカ行きの飛行機に乗り込みました。
このときが私が初めて大きな一歩を踏み出した朝です。
大人への一歩。
今の自分への一歩。
海外という見知らぬ土地への一歩。
今になれば、どうして母親がああ言ったのか分かる気がします。
海外で羽目を外してしまうかもしれない我が子、止めることはできませんよね。ワクワクした顔をしてるんですもん。ましてや遠くは慣れた土地に行ってしまうと事故にあったからといって即座に駆けつけることもできません。子供自身に自覚を持ってもらうことしかできないんです。
あなたがやったことは、あなた自身がしっかりと責任をとりなさい。子供ができたらというのはすごい例えではありますが、「自分の身は自分で守りなさい、あなたが選んだ道を信じてるから」ということだったのではないか。。。と勝手に思ってます。
きれいに意訳しすぎですかね(笑)
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